あれこれ考えさせられた言葉たち

「映画監督になったのは、映画監督になりたかった人じゃない。映画を撮ることが心底好きな人だ」(友達のTさん談)
研究者も同じだと思う。
私の場合は、心底研究がしたくて大学院を志していたのではない。どちらかというと、大学教員になりたいという目的があってこそ、大学院進学を希望していた。将来的に大学教員になりたいために、まずは大学院に進学するべきだと考えていたのだ。はっきり言って、大学院に入ってどんな研究をするかは、さほど重要なことではなかった。何より、まずは入ってしまうことが重要だった。だからこそ、大学院で何を研究したいのかという問いに対して、うまく答えることができなかった。
しかし、それでは本末転倒である。たとえうまく大学院に入ったところで、研究テーマが見つからずに「大学院に進学して本当に良かったのだろうか」と悩むがオチなような気がする。
理想論だと断った上で敢えて書く。大学院に進学するのであれば、どうしても自分の力で明らかにしたいと思えるくらいの問題やテーマが先にあるべきだ。しかし、少なくとも今の自分には、そういったテーマが見つからなかった。だからこそ、進学はしないという結論に達した。


「自分が役に立ってるという手応えを感じながら働きたい」(2004/10/12の朝日新聞の夕刊より)
しょっちゅう耳にしそうなフレーズである。だけど、やっぱり自分も同じように思う。そして、そう考えた時に思いついたのが、現在の希望職だった。
日本や他国の文化、国民、社会、生活などに関する理解を深める企画や機会を提供したい。月並みな発想だと自覚はしているものの、そういう機会を企画するという仕事をやってみたいと思っている。
他者と関係を結ぶことで、自分自身の中で化学変化が起こり、今までの自分ではなくなってゆく。私の師匠がある本のあとがきでそのように書いていたが、私は国際交流企画という方法によって、それを実践できたらなと思っている。



「どこを目指すかも重要だが、そこまでどうやって行くかも重要だ」(突然頭の中で閃いた)
昔、こんな話を聞いたことがある。
3人の男は東京から大阪へ向かえという指令を受けた。しかし、どうやって行くかやどれだけ時間をかけて行くかは指示されなかった。つまり、目的地だけが示され、そこにどうやって辿り着こうがお前の勝手だよというわけだ。
その指令を受けたのは3人の男は、全員違う方法で大阪を目指すことになった。
一人は東京発の「のぞみ」に乗って、たった2時間足らずで目的地である大阪に到着した。
一人は在来線に乗車して、途中で少し休憩を挟みながらゆっくり大阪を目指した。時には電車から見える景色を眺めたり、また時には近くに座っている人と話をしながら、とにかくのんびりと目的地へと向かった。
あと一人はなんとヒッチハイクで大阪まで向かった。途中までは順調にいっていたものの、名古屋まで到着した時点で、彼は突然心変わりした。「大阪に行くのやめて、しばらく名古屋にいよう」。こうして、彼は大阪に向かうことを断念し、他の道を選択した。
この話はあくまでフィクションだが、はじめて聞いたときに、実に示唆的な話だなぁと感じたのを記憶している。
今の自分には二番目の男のたどった道が一番ピンとくるかな。目的地に到着することで得られる喜びもあるだろうが、目的地へと向かっている過程での体験や出会った人の方が、自分にとってより大きな喜びであろうだろうから。
三番目の男の道も捨てがたいというか、それはそれで良いと思う。もし途中で目的地が変わったとしても、そしたらまたそこに向かって歩き出せばよいのだから。
唯一忌避するのは、ひたすら目的地へと直行する一番目の男。見田宗介の言う「人生の道具化」の典型例のような一番目の男の人生は、一見合理的に見えて、実は一番不合理なのだろう。